手放せない育毛剤
その時、私は育毛剤を片手に走っていた。ついさっき、大きな地震が起きたのだ。私は取るものもとりあえず、自宅へ走った。友人もそれぞれの家に急いで帰って行った。今日は、禿げ頭ファンのクラブ活動の日だ。見渡すかぎり禿げばかりの会だ。20人もいる。今日のお題は「愛用の育毛剤自慢」である。みんな育毛剤を愛用している。だが、みんな例外なく禿げだ。シュールな意味で面白いテーマだ。みんなと情報交換も力の入るものだった。雰囲気は上々で、みないつもより饒舌だった。俺の禿げ頭に髪の毛一本でも生やすことに成功した育毛剤こそ、最高の育毛剤だ、と、自分の育毛剤を紹介したあと、必ずこのセリフを付け加えるのがルールだ。
その大いに盛り上がっている最中に、凄まじい揺れがきた。座っているものはサーフィンをしているように左右に揺らされた。ソファの一番端っこに座っていた井上さんは転がり落ちた。
かなり長い間、揺れていた。地震が起きてから1分ぐらいはどんどん揺れが酷くなっていくばかりだった。女性の”怖い!という悲鳴が上がる。私たちは自分を支えるのに精一杯だった。床に持ち込んだみんなの育毛剤が転がる。テーブルから落ちたのだ。
私は揺れている間、死んだ振りをしていた。いつものことだ。物につかまって地面と一体化すれば、怖いことなんかない。いつからか、私はそんな流儀で地震を耐えるクセをつけていた。
激しい揺れ。悲鳴。転がる育毛剤。揺れている間、剛胆で有名な境さんが、カツラを自らとっておどけてみせていたような記憶がある。
そして、地震が収まったあと、普段通りの雰囲気が戻ってきた室内、ビル内。だが、私たちは自宅に帰ることを決めた。もし家人が怪我をしていたらどうなるのか。シャレにもならない。
私たちは銘々育毛剤を掴んだ。そして各自の自宅の方向に向けてバラバラになりながら走って帰ったのである。
帰宅すると、息せき切って帰ってきた私を、育毛剤を必至で掴み、肩で息をしている私を家人たちはおかしそうに笑って出迎えてくれた。一人も負傷者はいなかった。家も無事だった。近所に火事も起きていなかった。すべていつも通りだった。そして私たちは、被災地を心配しだしたのだった。